花房観音 -Hanabusa Kannon-

情交未遂

あなたの話を聞きたい、あなたのことを知りたい、誰も知らないあなたを、私の言葉で書き残したいーー言葉でまぐわいたいのです

作家&コラムニスト・勝谷誠彦

なぜ戦う、なぜ生きる

2014年7月28日   インタビュー:花房観音   写真:木野内哲也   場所:渋谷のんべえ横丁他にて

 

――でもそれが、どうして風俗のほうに?

 

「そうやって物を書きはじめて、ふと周りを見渡すと、エロ雑誌ってものがあるのを知って手に取ると、風俗ルポとか載ってる。あ、これだって思いましたね。だって19歳って、やりたいざかりですから」

 

――あの頃は、エロ雑誌多かったですし活気もあった時代ですね。

 

「それで、またサングラスかけて、辰巳出版とかに売り込みに行って仕事もらって、すぐに頭角を現したんです。今もそうだけど、とにかく書くのが早くて、書くわ書くわもうかるわで、あっという間に当時のサラリーマンの月収以上稼げるようになって、やめられなくなりました。白夜書房の『元気マガジン』で、山崎さんという編集長のもとでラッシャーみよしさんや、奥出哲雄さんとかと一緒に日本風俗学会てのを作って、みんなでサングラスかけて横になって刑事ものみたいに歩いた写真もありましたね」

 

――その頃、白夜書房で書いておられたのが東良美季さんで……。

 

「そうそう、東良さんは『ボディプレス』という雑誌の編集長で、そのあとも僕は『ビデオ・ザ・ワールド』のAV評とか読んでたから、実際にご本人に会えたとき嬉しかったね」

 

 もともと私が勝谷誠彦と知り合ったきっかけは、ライターの東良美季だった。

 アダルト誌の編集、AV監督を経て、AV情報誌で批評などを執筆していたフリーライターの東良美季が、私が20代の頃に観て深く感銘を受けた代々木忠、平野勝之、カンパニー松尾などのAV監督や作品について書いた本や記事を見つけ、まだネットの無かった時代、私は彼の文章を探して読み続けた。

彼の筆で描かれるのは、性欲解消の道具としてのAVではなく、裸の世界に生きる人間たちの刹那の輝きと生命としての強さだった。

彼の文章を読むと、「なぜセックスの世界で彼らは生きるのか――」そう問わずにはいられない。非難され、傷ついて傷つけられ、それでも性を生業にする人たちの言葉――それは20代の頃に、愛してもくれない初めての男をつなぎとめるためにサラ金にまで手を出して罪悪感に苛まれて早く死にたいと願い続けていた私が見つけた、一筋の光だった。

 私は彼の文章を追い続け、彼がブログをはじめたときに、ファンメールを出した。それがちょうど9年前で、その頃、私は借金がかさみ実家に連れ戻され、自分を責め続けながら悶々としながらいつかここから出たいと願い続けていた、田舎街の工場で働く、何も持たない、若くもないただの女だった。メールの返事をもらい、書いたものを褒められたのがきっかけで私は毎日膨大な文章をネットに綴るようになり、3年前に小説家になった。

東良美季が以前は度々私のことをブログに書いていたこともあり、昨年の夏に東京で東良美季の紹介で勝谷誠彦と会い、そののち、サンテレビの番組にゲストに呼ばれたという縁がある。

 かつて東良美季が、「自分の文章なんて誰も読んでいないだろう」と思いながら書いていたAVレビューを貪るように読んでいた人間は、確かに存在していたのだ。

 

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 ――東良さんが執筆されていた「ビデオ・ザ・ワールド」や「ビデオメイトDX」のAV評とか、私、ずっと読んでたんです。

 

「俺も全部読んでた、すごい好きだった。あの頃の女優さんて好きだな。切なさがあったでしょ、儚さとか」

 

――抜くわけでもないし、あそこに紹介されるAVを観てたわけでもないのに、なんであんな熱心に読んでたんだろうなって自分で不思議に思うんですよ。

 

「あれはね、日本人が好きな忠臣蔵もそうだけど、群像劇なんですよ、あの業界の。読んでて、その村の中に自分もいる快感。僕は風俗村の一員であることがすごく快感だし、所属意識があったから、ましてやその中にいた東良美季と出会えたときなんか、感動でしたよ」

 

――私の周りは普通の人たちばかりで、自分自身も普通の人間のつもりなんですけれど、20代の時にああいうの読んで、当時自分が置かれた環境よりは、あそこに描かれている世界のほうに納得がいったんですよ。セックスを生業にする人たちの面白さ、生臭さ、それも全部含めて。でも、それは最近のAVには感じない。

 

「最近の作品は、ネットで観てるだけだけど、なんていうか、情念がないように思える」

 

――女の子は昔と比べて、ずいぶんと可愛くなって、セックスにも積極的にもなりましたけど、あんまりにもあっけらかんとして逆にエロさを私は感じない。これは週刊誌等のセックス特集の氾濫でも思うんですけど、人の身体をつかってオナニーしてるような空気が拭えないんです。

 

「女子高生の人気職業のベストテンにキャバクラ嬢が入っているって聞いたときにびっくりしたんだけど、アダルトビデオで本番をするこということのうしろめたさや羞恥心がここまで失われると、もうそれはアダルトビデオではないかという気がする」

 

――話を戻しますけれど、そうやって美少年小説から風俗ライターになられて……。

 

「あの頃はね、みんなすごくおもしろがって風俗やってたの。新風営法の前で、興味津々で、いい大学出たインテリなんかが店長やアドバイザーしたり、そういう連中と面白がっていろいろやってた。僕は言われたらソープの取材もしたけど、どっちかっていうとライト風俗だね」

 

――体験取材ですか。

 

「もちろん。だから僕は風俗ライターじゃなくて、風俗ジャーナリストなんです。ジャーナリストは現場を取材しないと書いちゃいけないからね」

 

――大学生のときは、ずっとそうして風俗ライターをしながら学校に通われて……。

 

「大学は5年行って卒業しました。ほとんど1年生で単位とったんだけど、体育というものがあるのを忘れて留年した。5年生のときには、夜間の第二文学部の卓球の授業を選択して、缶詰になってた集英社からハイヤーで夜8時から体育館に行ったこともありましたよ。ちょっと打合せとか言って抜け出して。とんでもないガキだった」

 

――学生時代から、編集プロダクションを経営されていたんですよね。

 

「学生時代の後半ですね。お茶の水前のマンションに会社つくって、若くて優秀な学生を何人か雇ってました。当時、学生企業家が流行ってたんですよ。西川りゅうじん、いとうせいこうとか、秋元康も同世代。そういう皆さんがいて、広告がすごいブームで、ホイチョイプロダクションとかあったけど、ああいう明るく楽しい私ではなくて、僕は地を這う極道の世界にいた。

でもそのうち広告の仕事や、リクルートなどから注文も来て、当時創刊されたばかりのフロムエーの創刊号から「TOKYOまゆつばシティ」ってコラムを書いてましたね。あと、セブンティーン、プチセブン、ギャルズライフなんかの女性誌。夏の新島ひと夏の体験ルポとか、ちょっとエロい記事のゴーストとか、いろいろやりましたよ。ギャルズライフではハマコーさん(浜田幸一)の人生相談というのもやってて、議員会館でハマコーさんに、記事これでいいっすかって聞きに行ったり……まさかそのあと、TVタックルでご一緒することになるとは夢にも思わなかったけどね」

 

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