花房観音 -Hanabusa Kannon-

情交未遂

あなたの話を聞きたい、あなたのことを知りたい、誰も知らないあなたを、私の言葉で書き残したいーー言葉でまぐわいたいのです

第3回 作家・岡部えつ

私たちは、女だ

2014年12月28日   インタビュー:花房観音   写真:木野内哲也   場所:新宿花園神社、バー雑魚寝にて

 

 

 私はときおり、女であることにうんざりする。

 いったいいつまで、幾つまで、女でい続けなければいけないのか――それを考えるだけでくらくらとする。

 

 いつまでも女でいたい――そんなことを願っていた時期もあったような気がするけれど、最近は早く女であることから卒業したいと願うことも増えた。だって女でいつづける限り、求めてしまうもの。私の中の「女」――それは、欲深さだ。

 性的なことに関わらずの、欲深さ。

肉体が衰えても、生理が終わっても、それでも自分自身が女のままであり続けて生きるのはつらいんじゃないかと、今は思うことのほうが多い。私が未だに飼いならせない「女」は求められるよりも、求めてしまう獣だからこんなにも苛立たしくなるのだ。

 嫉妬深くて、欲張りで、理不尽で、身勝手な、私の「女」は、私自身の欠乏でもある。

 私は私の欲深さにしょっちゅう嫌気がさしている。子どもはいないけれど、結婚して、やりたい仕事で収入を得て、友人もいて、それでもどうしてこんなにも自分は満たされないのだろうか、と。

 飢餓感は身体と心をむしばんで喉が枯れるほどに叫びたくなる衝動を抑えて生きている。年を取ればとるほど、何かを得るほどに欠乏の穴は増えていき、身体じゅうに隙間風が吹きぬけている。もはや四十を過ぎ、体力も精神力も衰えつつあるのにこんなにも餓えているなんていっそ誰か殺して楽にしてくれないないだろうか――嘘だ、嘘だよ――私はまだ死にたくない。若い頃は早く死にたかった、30歳までに死ぬつもりだったから未来なんて夢を見ずに済んだ。自分で死ぬ勇気はなかったから殺してくれる人を探していた時期もあった。結局死に損なって気がつけば40を過ぎているが、もう死にたいなんて願わない。

 私はこの欠乏が、そこから青白い手を伸ばして求め続けている欲望がある限り、死にたいなんて思わない。そう、女であることに執着し続けているのは、私自身だ。だって欲深いから、こうして物を書き続けていられるのだから。

 

 10代、20代、若い頃は、まさか40代になって自分がこんなふうに「女」に執着しているとは思いもよらなかった。結婚して、子どもを産んで、母となって平穏な人生を送るものだと信じていた。まさか愛だの恋だのセックスだのなんてものから離れられなくて、しかもそれを描くことが生業になっているだなんて、予想外の人生だ。

 若かった頃、今の私の年齢ぐらいの女が、愛だの恋だのセックスだの口にして、男がどうのこうのなんて考えていたならば――気持ち悪いなんて、思っていたような気がする。いい年して、そんな色恋沙汰の話をするなんて、と。

 今だって、自分で自分が気持ち悪いと思うもの。いつまでそんなことから離れられないんだ、と。妻となり母となり幸福そうな友人を見る度に、あるいは独身でも欲望など捨て去って毅然と生きているかのように見える人に遭遇する度に、私は頭がおかしいんじゃないかだなんて、思ってしまう。ぐるぐるとブラックホールのような欠乏を抱えて、満たされないまま寂しい寂しいと毎日のように求め続けている自分は、ある種の病気ではないのかと。

 

 私はいつも寂しい。求めるから、求め続けるから、寂しい。そんなことは自分自身で十分承知だ。お金をもうけようが、男がいようが、名誉を手にいれようが、称賛されようが、満たされないままでいるのは。そして、だからこそ生きて、こうして書き続けていられるのも。

 たぶん、私が寂しくなくなったときは、もう書くことも生きることも諦めるときなのだろう。

 満たされない、欲深い女を侮蔑し、嘲笑する者たちがいるのも知っている。自分でもみっともなくて、醜いとも思うもの。毎日毎日、反吐が出そうで、自分の醜悪さに笑いが込み上げてくる。

 

 いったい、いつまで女でいつづけないといけないのか――。

 そして、「女」であることから降りられないのなら、どう折り合いをつけていけばいいのか――私が自分より年上の女性作家の小説を読むのは、その答えを探しているからなのかもしれないとも思う。

 

 そして、話を聞いてみたかった。

「女」の先輩に。

 

 

作家・岡部えつ――大阪府豊中市にて出生、群馬県前橋市にて育つ。現在は東京都武蔵野市吉祥寺に在住。2008年 短編小説『枯骨の恋』が、『幽』怪談文学賞の短編部門大賞を受賞。

2009年 短編集『枯骨の恋』(メディアファクトリー)上梓。その他の著書に「新宿遊女奇譚」(メディアファクトリー)、「生き直し」「残花繚乱」(共に双葉社)がある。

 

 

 岡部えつのデビュー作「枯骨の恋」は怪談というジャンルではあるが、官能の匂いに満ちている。若くない独身の女が、痩せて細って亡くなったかつての恋人の幻を見続けている。女が部屋に男を連れ込んで寝るときも、その幻はそこにいる。

 それは岡部えつ自身の体験に基づいた話だ。彼女自身も、かつての恋人を亡くしており、その罪悪感からか、一度だけ「幻」を見たのだと語っていた。

「枯骨の恋」「新宿遊女奇譚」と怪談小説を出したのちに、昨年、いじめを題材にした「生き直し」、そして数人の女たちの生き方が絡み合う様を描いた「残花繚乱」が今年に七月に出版された。

 

 岡部えつのtwitter、ブログなどを見ていると、この人は、とことん女なんだなと、感嘆する。「女子」でも「女の子」でも「おばさん」でもなく、「女」。平仮名で「おんな」と発音するのが相応しい。

 私自身がそうなのだが、自らの女性性と折り合いをつけられない女がいる。若い頃ならば、男のような一人称を使ってみたり、年齢を経ると自虐的になってしまったり、男なんていらないと、思いもよらぬことを口にしてみたり。女性性と折り合いをつけられないということは、つまりは人の目を気にしている自意識過剰さに他ならないことはわかっている。けれど、それでも「女」としてどう生きるかに迷い続けている者も少なくない。

 私のように、自分の中の「求める性」である「女」にうんざりして、早くそこから降りたいなんて、どこまで本気か自分でもわからぬままにこうして書いてしまう者もいる。

 

 本当は、女でいたいくせに。

 

 私は今、43歳で、きっともうあと数年たてば生理も終わる。40歳を過ぎてから、身体のあちこちに衰えが訪れている。確実に肉体は滅びに向かっている。それはもう避けられないことなのだけれども、心が身体についていかなくて戸惑っている。

 心と身体の不均衡さがこれから段々広がっていくのかと思うとため息が出る。

 

 今年の4月に私は「楽園」という本を出した。京都の旧遊郭を舞台にした、若くもなく、そして裕福でもない40代前後の女たちの焦燥と葛藤の物語だ。物語を描くことはその世界に生きることでもある。昨年の夏から今年にかけて「楽園」に自らも身を置いて私自身も焦燥と葛藤に苦しんだ。いや、見て見ぬふりをしていたそれらのものが物語の中に生きる女たちと共に露わになってしまったのだ。

 昨年、私は忙しい怒涛の一年を終えようとしていた時期だった。

 心身ともに疲労していた。仕事は恵まれて充実していたけれど、同時に「官能」というものと距離を置きたくてたまらなかった。

 自分の思う「官能」は求められていないとか、自分自身が「女」を終わらせようと、諦めようとしているのに、「官能」を書き続けられるのだろうか、と。

女流「官能」作家という冠がついたゆえに、求められるものにうんざりもしていた。

 男の欲望に応えられない、応えたくない自分には、できないと。

 正直、この20年で一番ぐらいに性欲も枯れていたから、何もかもうんざりしていた。

「セックス」から離れたくてたまらない時期だった。女を止めたくて、降りたくて、仕方ない時期だった。自身の根っこにある「女」をどうやって息の根を止めようかと、そんなことばかり考えていた。

 それが、実際に「楽園」に足を運び、「楽園」の女たちと出会い、「楽園」の空気を目の当たりにして、吹き飛んでしまったのだ。

 ああ、私は女なんだ――逃れられないのならば、女として生きよう――そう思って、「楽園」という小説を書き上げた。女たちを解放してやりたかったのだ。それは私自身が救われたかったから、そうせずにはいられなかった。

 けれどそれでも私はまだ折り合いをつけられてはいないし、ものすごい勢いで過ぎ去る年月の中で焦燥感と飢餓感と寂しさに押しつぶされそうになっている。

 

 ④

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