花房観音 -Hanabusa Kannon-

情交未遂

あなたの話を聞きたい、あなたのことを知りたい、誰も知らないあなたを、私の言葉で書き残したいーー言葉でまぐわいたいのです

作家&コラムニスト・勝谷誠彦

なぜ戦う、なぜ生きる

2014年7月28日   インタビュー:花房観音   写真:木野内哲也   場所:渋谷のんべえ横丁他にて

 

 

――まずうかがいたいのは……勝谷さんと会った、一緒に仕事をしたというと、よく人に聞かれるんです。「勝谷さんて、男が好きゲイなの?」って。西原理恵子さんの漫画にかつて登場していた際に、「ホモかっちゃん」という美少年好きのキャラクターの印象があまりにも強いからなんでしょうけれど……実際のところは、どうなんですか?

 

「だからね、よく言うけど、僕は風俗ライターとして性の荒野を命をかけて走り続けてきたので、もう突き抜けちゃってるんですよ」

 

――男性との経験はあるんですか。

 

「なくはないですね」

 

――あの西原理恵子さんの漫画の「ホモかっちゃん」と、実際の勝谷さんとはすごく印象が違いますよね。私もですけれど、メディアに登場されたときに驚いた人は多いと思います。

 

「あれは西原さんのホモアンテナが立ったんです。僕はもともと西原さんの担当じゃなかったんだけど、『マルコポーロ』(*かつて文藝春秋社が発行していた雑誌。ホロコーストに関する記事が問題になり廃刊)に西原さんが連載して、あの人の漫画は、編集者が登場するじゃない。彼女の担当が漫画の中で、裏の畑で大根盗んでそれをおまんこに入れろとか書かれたりした。その娘はすごくいいところのお嬢さんだったから家族会議が開かれるはめにもなって、すごく嫌がった。それに西原さんが当然のことながらキレたんですよ。

僕が徹夜明けでふらふらしながら編集部にいると、勝谷、ちょっと担当が倒れたんで代わりに頼むって、いきなり羽田空港に行かされた。初対面だから何を話していいかわかんないし、漫画家だからとりあえず漫画の話をしようと思って、僕はジルベール(竹宮恵子が少年愛を描いた『風と木の詩』の登場人物)が好きでって話をはじめて……共通の話題は少女漫画の話だと思ったから、『ポーの一族』(萩尾望都の漫画・こちらも少年愛)はエドガーよりアラント・ワイライトが好きでとかいろいろ言っているうちに、『ホモ?』って言われて、そこからあのキャラクターができてしまった」

 

――あの、西原さんの漫画の「いつもニコニコホモかっちゃん」のキャラは強烈でしたね。

 

「でも、僕わりと美少年好きなんで、西原さんと海外行ったときも、『おっ、美少年』って反応して眺めてたから、そのへんは本当ですね」

 

――美少年好きというのは、よくおっしゃっていますよね。

 

「大好きです」

 

――愛でるんですか、それとも性的な欲望の対象としてですか。

 

「どっちかっていうと観察。14、5歳の男の美しさというのは、女の子よりずっと綺麗ですよ」

 

――そういえば早稲田大学の少女マンガ研究会に所属されてたんですよね。

 

「創設者のひとりですから」

 

――西原さんが、灘校(兵庫県の日本有数の進学校・男子校)で男色にふけって、クラスの半分が受かる東大を落ちて親に勘当されたと書かれていたのは……。

 

「それは嘘です(笑)。でも、灘校で最も成績が悪かった人間であることは事実です。ひとりかふたりぐらいは下にいたかな……でも最初から最後まで下から3番目とかだったんですよ」

 

――弟さんはお医者さんで、尼崎の御実家を継いでおられるんですよね。それはお兄さんが医学部に行かなかったから?

 

「もともと医者になるつもりだったんじゃないかな。弟の娘も医学部だし」

 

――弟さんとは、似てるんですか。

 

「全然似てない、特に性格が」

 

――書かれたものを読んでると、お母さんの影響が強いというか……マザコンですか?

 

「マザコンだと思いますよ。マザコンだけど母親に甘えてきたマザコンじゃない。うちの母は、ずっとうちのオヤジが兄弟喧嘩やめろっていうぐらい、向こうが降りてくるんですよ、子どもの世界に。蝶よ花よと育てられたお嬢様で、バレリーナで、オードリー・ヘップバーンに似た綺麗な人だった。親父は面食いで、ママ綺麗だろ、綺麗だろってずっと言ってた。

僕は母親にとっては自慢のボクちゃんだったんです、小学校六年生までは。同級生の白井文(元尼崎市長)が、俺を『何かわけわからない大人の世界の人だった』と言ってたけど、他の子どもたちがエルマーの冒険とか読んでいるときに、三島由紀夫の『午後の曳航』『肉体の学校』とか読んでるような小学生だった。母親が三島オタクだった影響なんですけどね。他にも伊藤整とか、瀬戸内晴美とか……全部母親のなんですよ。

それが灘中に入ったら劣等生になったので、ママのプライドが微塵に砕けて、どうしてお前はそんなバカなのって言われましたね。『毎晩、宝塚ホテルまで言って離乳食のポタージュ食べさせたのに、どうしてこんなバカができたの』って。そんなことするからバカになるんだよ、ってこっちは思ったけど。弟が子どもの頃は、時代は変わってたから、打たれ強く真人間になった」

 

――灘中、灘校から早稲田大学第一文学部に入学して、19歳から風俗ライターをされてたんですね。また、なんで風俗ライターなんですか?

 

「とにかく金がなかったんです。実家が開業医なので親は医学部行かせたがってたんだけど、そんな能力もないし。慶応の法科とかも受かってたけど、勝手に早稲田の文学部行ったから親が怒っちゃって兵糧攻めされて、自分で稼がなきゃいけなくなった。当時は栄養失調で、体重は48キロぐらいになりましたよ」

 

――医学部というのは、東大の?

 

「浪人のあとは医学部は諦めたんですが、東大の文Ⅲに合格すると思って、親は本郷の近くに学生の身分不相応なワンルームを借りてくれて、そのあと仕送り打ち切りやがったから、家賃の支払いも大変だった。大学の食堂のお膳下げ口で、ダイエットとかふざけたことをぬかす女子学生のご飯を半分もらって、70円のちくわの磯部揚げをおかずにして、赤貧洗うがごとくの生活してましたね」

 

――じゃあ、アルバイトもいろいろされてたんですか。

 

「家庭教師をはじめ、土方とか、あらゆるバイトしたけど、続かなかった。この性格って、マネージャーのT-1君に指摘されて、彼が口火を切ったらみんなに言われるようになったんだけど、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、完全にそれなんです。僕が文藝春秋で10年やれたのは、上司の花田紀凱さん(現在『月刊WiLL』編集長)、あの人もADHDだと思うんですけれど、あの人の下だったからなんですね。どんなに浮いていたかというのは辞めてからわかった。独立王国作ってたのね、ふたりで。

考えてみたら、他の組織の中で働いても、ことごとくダメだった。番組でもダメだから、どんどんクビになる。こんなに番組をクビになる人は珍しいでしょう。クビにならなかったら番組のほうをつぶしちゃう。普通のサラリーマンもしたことないし、満員電車嫌いだし、並ぶの嫌いだし、地図読めないし、協調性ゼロだし。

それであらゆるバイトに失敗したんだけど、住んでたマンションの裏に、みのり書房という出版社があることに気づいたの」

 

――「月刊OUT」などを発行していた出版社ですね。

 

「当時、愛読していた少年愛雑誌に『JUNE』とか『アラン』とかあって、その『アラン』の発行元がみのり書房だった。で、フリーライターって肩書き入れた名刺をつくってサングラスかけて、少なくとも25歳ぐらいに見えるようにして営業行った」

 

――その頃の名前は?

 

「恥ずかしいけど、三尋狂人(みひろくると)ってペンネーム。あとで、みひろってAV女優が出てきて、俺の名前じゃんて思ったけど。で、みのり書房に行くと原稿見せろっていうから、15歳のときに灘校生徒会誌に書いた男色小説を持っていったんだよ。その名も香ばしい『稚児懺悔酒呑童子』……ここ笑うところだから」

 

――(笑)やっぱり男色なんですね!

 

「しかも『五山の僧は孌童を愛す』(*孌童=美少年)からはじまるんですよ。15歳の子が、あの難しい字を書いて。でもそれ持っていったら載せてくれたんです、しかもちゃんと漫画家さんの挿絵付きで」

 

――じゃあ、勝谷誠彦のデビューは、男色小説……。

 

「そのあとも何作か書きました、『紅唇奇譚』とか、今でこそBLって言葉がありますけど、当時は美少年小説です。でも感激しましたね、憧れていた漫画家さんが絵を描いてくれて……。『紅唇奇譚』なんか、戦前の青年将校と肺病の美少年が登場して『貴族という一群の人々が生きていた時代であった』って書き出しです……馬鹿じゃねーか、俺。あー恥ずかしい! 軽井沢の家に全部残ってますよ」

 

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