花房観音 -Hanabusa Kannon-

情交未遂

あなたの話を聞きたい、あなたのことを知りたい、誰も知らないあなたを、私の言葉で書き残したいーー言葉でまぐわいたいのです

作家&コラムニスト・勝谷誠彦

なぜ戦う、なぜ生きる

2014年7月28日   インタビュー:花房観音   写真:木野内哲也   場所:渋谷のんべえ横丁他にて

――なぜ卒業して、文藝春秋に入社されたんですか?

 

「編プロで、いろんな仕事してたんだけど、『話のチャンネル』ってのが結構売れてて、それを週刊誌化するからってずいぶんページを任されたりで、それで事件をやりはじめたの。週刊誌化は失敗して、3号でつぶれて、俺の売掛が回収できなくてヤバいかもって思ったところに、ある雑誌が創刊するからって来て……そこでひとつ大きな企業のスキャンダルをつかんでゲラの状態までいってたのを、その出版社が売りやがったんだよね、広告と引き換えに。こっちは子どもだったから、大人の世界ってえげつないなーと思った。

そしたらもう、家のドアに靴跡がべったりついてたり、郵便受けに汚いものが入れられてたり、脅しみたいなことがあって……やばい、これは殺されるって、一度だけ売り込みに行ったことのある文藝春秋に駆け込んだの。そしたらかくまってくれて、そのスキャンダルも記事になった。文春すげーなって思いましたね。

そのあとちゃんと入社試験を受けて入りましたよ。でも、自分の会社そのままにして逃亡したから、文春に入ってからも編集部にかかってくる電話で『ばかやろー、それは吉原のソープ云々』とか残務整理やってたのは、花田さんがたまにネタにして書いてますね」

 

――文藝春秋では、まず写真週刊誌の「Enma」に。

 

「『Enma』は創刊から廃刊までやりました。文藝春秋の入社試験の面接で、正直に風俗ライターしてましたって言ったんだけど、なんで僕が採用されたのがあとになってわかりましたね。要するに汚れ仕事をする社員が欲しかった(笑)。だって、フライデーとかフォーカスと切った張ってするのよ、文春には、そんなことできる社員いないし。

それから僕の地獄のような戦いがはじまったよ。フライデーなんか、当時50人単位で動いてて、バイク部隊に無線持たせてやってたのに、こっちは10人ぐらいで、はじめから絶望的だった。それでも創刊からスクープとりましたよ、裏社会知ってるからね。それしながら社命で中型二輪の免許とりにいかされましたね、尾行用に。いつ免許とりに行くんですかって聞いたら、夜間だよって。会社の金じゃないですよ、免許もバイクも自腹ですよ。夜の六本木を、芸能人いないかなーって意味なくうろうろしたり」

 

――「Enma」廃刊後は、週刊文春ですか?

 

「その前に、一年だけ月刊文藝春秋にいました。同級生交歓とか、偉い方の担当もしましたね。でもその頃、そういう連載やりながらも、結局、書き手でもあったんです。話を聞いて僕がまとめるから、月200枚とか平気で書いてた。あの頃の月刊文藝春秋は、一番売れてたね、その手記にセンセーショナルなタイトルつけて、時の大臣のクビをとばしたりもしょっちゅうだった」

 

――そのあと、週刊文春でも花田さんの下で働いて、「マルコポーロ」に移動し、あの事件が起こるんですね。ホロコーストについての記事が問題になり抗議を受けて廃刊になるという。

 

「あれで花田さんが辞めて、僕は辞める必要なかったんだけど、あの人をクビにするような、追い込んで辞めさすような会社はクズだと思ったから自分も喜んで退職しましたよ。そしたら花田さんが嬉しそうな顔をして俺を呼び出して、『勝谷、俺、次、決まったよ』っていうから、どこですかって聞くと、『朝日だ!』って……。僕はそのとき、本当に椅子から転げ落ちそうになったんですよ。だって週刊文春いた頃、朝日新聞社って天敵だったもん。ずっとでっちあげみたいなことまでして朝日の悪口書いてたのに……。しかもそのあと、僕はこつこつ自分で食って行こうとしてたのに、朝日に呼び出されて『来週から、お前の机あるから』って言われて、おっさん何考えてんねんて思ったよ。もしそこでついて行ってたら、今頃朝日の社員になってたかも」

 

――小説は書いておられたんですか。

 

「『稚児懺悔酒呑童子』を書いていたぐらいだから、小説家には小学校の頃からずっとなりたかった。早稲田で同じゼミだった芥川賞作家の小川洋子さんが、エッセイで『すごく上手な人がいて憧れてた』とか書いてくれてて、すげー恥ずかしかった。

もともと小説書きたくて早稲田行ったんですよ、当時は小説を教えるところって早稲田の文芸専攻しかなかった。そこで平岡篤頼先生というフランス文学者がおられて、2年生からゼミで小説書かせるわけ。僕は仕事でちんこまんこ書きながら、こっちでリリカルな小説書いてた。専攻の機関紙に『蒼生』ってのがあって、全学年だから平岡ゼミの200人ぐらいの中から数人しか載ることができないんだけど、僕はいきなり2年生で掲載された。タイトルは『栗の花』、本邦初のオナニー小説ですよ。そのあともわりと褒めてもらってた。小川さんが『いつもつまらなさそうに下を向いてた』書いてて、それは内心『このおっさんの話早く終わんねーかな、次のカネになる原稿が待ってるんだけどな』とか思ってたんだけどね」

 

――在学中に「早稲田文学」にも小説が掲載されたんですよね。

 

「『金魚』っていう小説です。在学中に載るのは極めて珍しいんですよ。平岡先生にはあんまり評価されない作品だったけど、これおもしろいんですよ。フリーライター時代の自分を書いてる。でも、そこから長い長い沈黙に入りましたね、小説は」

 

――記者時代は全く書かれてないんですか。

 

「一切書いてない。文春に入った最初の年、休んだのは正月だけで、364日会社に行って、その半分泊まってて、さらにバイクの免許とらされたり張り込みして尾行してる人が小説なんて書けるわけがない。そのあとも湾岸戦争に行ったり、カンボジア行ったりしてたから……だけど、40歳ぐらいまでは旅の時代だと思ってた。世界中行ったからね、こんな貴重な体験を人様のお金でやらしてもらう機会なんて、まずないから。小説なんか老後の楽しみでいいやぐらいに思ってたんです。

ところが平岡先生が『風花』(新宿の文壇バー)で倒れて亡くなられて、そのおくやみの席で集まったのよ、島田雅彦さんとか重松清さんとか。重松さんは早稲田文学でバイトされてて、僕の『金魚』のゲラ刷りの校正の赤入れをしてたという縁もあったんだけど、文春やめてフリーになってまっ先に誘われたのが女性自身の『シリーズ人間』で、そのときのアンカーが重松さん」

 

――「田村章」名義ですね。シリーズ人間、私も出たことがあります。あれは取材も丁寧にされますし、文字数もかなり多いですね。

 

「重松さんとはそういう縁もあった。平岡先生のお悔やみの席で、『平岡先生、どんだけお前のこと買っておられたか知ってんのか』とか言われたんです。でもその時には『ディアスポラ』は出ていて、あれは先生にお渡ししてた」

 

――先日、文春文庫になりましたけれども、もともと「ディアスポラ」は文學界に掲載されたんですよね。

 

「そう。あれは芥川賞を取るつもりだった。人生最悪の時期にね、ちょっと恥ずかしいけれど、そんな目標持ってたの。そのあと、小説宝石で連作を書いて、それが『彼岸まで』(『平壌で朝食を。』と改題され光文社文庫より発売中)。あれはエンターティメントですね。でも、小説は評価されないな、僕は」

 

――小説はこれからも書き続けられますか。

 

「書きますよ、もうそろそろ……と言い続けて10年になるんだけど。でも、ずっと『天国のいちばん底』という話を書いて、有料配信メールの読者には読めるようになってて、それが今、四百字詰め原稿用紙8000枚になりました。大菩薩峠を超えつつあるけど、やめられないんだよ。あれ、ものすごくコアな読者とかいて、おもしろい感想とか送ってくるんだよ。もともとはサンデー毎日で連載してたんですけどね」

 

――かなりきちんと毎週書いておられますね。

 

「あのメルマガの日記の他に、毎週小説を20枚書いてる、つまり僕、一ヵ月に80枚小説書いてるわけでしょ。これはずっと在野でトレーニングしているプロみたいなもんで、自分でいうけど、小説上手くなったよ、あれ書いて」

 

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