花房観音 -Hanabusa Kannon-

情交未遂

あなたの話を聞きたい、あなたのことを知りたい、誰も知らないあなたを、私の言葉で書き残したいーー言葉でまぐわいたいのです

弁護士・タレント 角田龍平 ~少年は龍になった~ (2012年)

2016年9月19日   インタビュー:花房観音   写真:花房観音   場所:哲学の道にて

 

 やんちゃ坊主のようだな、と思った。きらきらと大きな瞳を輝かせながら喋る、その姿は。よく通る声と、テンポのよい喋り方、時事ネタで笑いをとりながらも人を不愉快にさせないバランスの良さ、豊富な知識、繰り広げる話題の幅は広く、飽きさせない。

 大阪の十三シアターセブンにて定期的に開かれているトークライブ「トーキングプロフェッション 影山教授と角田弁護士」では、関西の人気番組MBSヤングタウンの元プロデューサーでもあり、現・同志社女子大学教授の影山貴彦氏を相手に舞台に立つ、Gジャンを着た彼は、「気のいい、おもろい兄ちゃん」だ。

 しかし彼は普段はスーツを着て、法廷に立つ。彼の職業は弁護士だ。

 法の番人である彼は、タレント事務所(爆笑問題と同じタイタン)に所属し、テレビ、ラジオ、イベント等でこうして人前に出る機会も多い。島田紳助の番組の企画がきっかけで、オール巨人師匠の弟子となり漫才をするが、その後、芸能の道を捨て司法試験を受験し、9回目の受験にて合格。弁護士としては、現・大阪市長である橋下徹氏の事務所に入ったのち、昨年司法書士である妻と共に独立開業をした。司法試験合格の後は、「オールナイトニッポンパーソナリティオーディション」に合格し、再び表舞台に立つようにもなった。

 彼の名は角田龍平、35歳。(*2012年当時)

 このインタビューを申込み、「どこか角田さんの思い出の場所で写真を撮りたい」と言うと、指定されたのは、京都・銀閣寺近くの哲学の道だった。哲学の道は、京都大学哲学科教授だった西田幾多郎博士が思索にふけりながら歩いたことで、その名で呼ばれるようになったという。疏水沿いの石畳の道には、日本画家・橋本関雪夫人により植えられた桜の樹が春には咲き乱れ、夏には蛍の姿も見られ、人々が集う場所でもある。

 雨の哲学の道で、話を聞いた。

 

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――ご出身は、京都の宇治ですよね。それからずっと京都ですよね。

 

「はい、そうです。受験をして洛星中学に入り、そのまま洛星高校に進み、一芸入試で立命館大学法学部に入りました」

 

――洛星高校って、カトリックの男子校ですが、京都では偏差値の高さで有名ですよね。

 

「基本的に、東大や京大に行く人が多いですね」

 

――その洛星高校時代に、芸能界に入られたわけですけど、進学校の学生であったのに、何故そちらに?

 

「もともとラジオが好きで、放送作家とか、前に出るよりも裏方の仕事に憧れていたんですけど、高校の時に『元気が出るテレビ』のお笑い甲子園に高校の友達と応募したんです。ビートたけしさんに会ったら人生変わるんじゃないかなと。その時、オーディションではすごいうけたんですけど、通らなかったんですよね。『冷たい熱帯魚』の元にもなった埼玉県の愛犬家殺人事件をネタにしてたんで、そりゃあテレビには出せないですよね。当時は高校生だったし、こういうことしたらあかんのやということがわからなかったんです。落ちたのが悔しくて、友達に教えてもらった島田紳助さんの関西ローカルの番組『人間マンダラ』の企画にひとりで応募したんです。その企画というのが、オール巨人師匠が素人の漫才師に漫才を教えて、今宮えびす新人漫才コンクールに応募するという企画だったんです。その番組のオーディションに勝ち残って、そこで知り合った相方とコンビ組んで、新人漫才コンコンクールでも大賞をもらって、そのままオール巨人師匠に弟子入りしました。それが高校2年から3年の夏にかけてです」

 

――東大京大目指すよりも、芸能界に行こうと思ったんですか。

 

「受験勉強に集中ができないし、興味がなかったんです。周りがすごい勉強してて、それを見ててする気になれず、乗り切れなかった。天邪鬼なんです。学生生活はクラブに打ち込んだわけでもなく、勉強もせず、プロレスや映画ばかり見て、悶々としてましたね。でも、何もかも中途半端だったので、お笑いを真剣にやりたいという気持ちもあったんです。けど――今から考えたら、同級生や東大に合格した兄と同じ土俵で勝負して負けることを避けていただけかもしれません」

 

――御兄弟は、ふたりですか。

 

「兄とふたりです。父は普通のサラリーマンです。特に教育熱心ということはなく、小学校から塾には行ってましたけど、親から勉強しろと言われたことはなかったですね。ただ、父には溺愛されていて、弁護士になってラジオやりだしてから、ちょっと事件があったんですよ」

 

――どんな事件が?

 

「2ちゃんのスレで僕の番組のスレがあって、そこにやたらと僕を褒めまくる人がいたんですよ。彼は『弁護士 角田 龍平』みたいにやたらスペースを開けるので、スレで『スペース』と呼ばれていました。スペースは、僕の出演番組や新聞や雑誌をくまなくチェックしてて褒めまくるんです。『平成の 吉田 松陰 イコール 角田 龍平』みたいに。何で吉田松陰やねんって。自作自演でとにかく僕を褒めまくるけど、なんか頓珍漢なんです。ところが、ある日、メールチェックしたら、珍しく親父からメールが来てたんです。普段はメールとかしないんですよ。で、そのメールを見て、あれ、待てよ……そのメールがスペースだらけで……まさか! と思って、疑惑が膨れ上がって、でも僕は弁護士だから証拠を集めなと。それで検証をはじめて、スペースの書き込みを見たら、どうもラジオをネット局のKBS京都で聴いているから京都在住やな、と。そして僕が高校時代に載った新聞記事を持ってるらしい。スペースは毎日書き込みしてるが、何日かそれが途絶えたことがあって、それがちょうと横浜にいる兄の子供のお宮参りの日と重なってるんですよ。他にもいろんな状況証拠が出てきて、母親に『オトンに聞いてくれ!』と電話をかけたら母親から翌日『お父さんは認めませんが、お母さんにはわかります。お父さんがスペースです』というメールが来たんです。で、親父を追及して、最初は『お前のラジオは聴いたことがない』としらばっくれてたんですけど、最後に逆ギレして『お前ラジオで下ネタ言い過ぎなんじゃー!』と自白したんです。何でそんなことすんねんと聞いたら、『サンジャポの書き込みに角田は必要ない、八代で十分と書かれてたから、お前が芸能界から追放されると思ったんじゃ』って……サンジャポのスレにも書いてたんかい! とスレを見たら,八代弁護士をディスるスペースだらけの書き込みが。まさか60歳を過ぎたうちの親が、2ちゃんに書き込みとかしてると思わなかったですね」

 

――子煩悩、なんですかね……。

 

「まさかと思いました……自分の親が……スペースは書き込みで17歳の高校生のふりしていましたからね。64歳なのに」

 

――テレビの企画に合格して、漫才コンクールにも入賞して芸能界へ行くと決められたんですか。

 

「島田紳助さんやオール巨人師匠に思いのほか褒められて気をよくしたんです。単純なんで。やらなあかんような状況になりましたね、それまではそこまでなりたいと思っていたかどうか疑問なんですけど。高校卒業するタイミングで、巨人師匠の付き人になりました」

 

――大学は立命館大学に入学されたんですよね。

 

「一芸入試なんですよ。科目も国語と英語だけで、『荒唐無稽』に読み仮名を振るとか、中学受験よりも簡単でした。多分、満点だったと思います」

 

――巨人さんの付き人をしながら、舞台とかにも上がられてたんですか。

 

「何回か立ってたんですけど、大きい劇場ではなくて小さい劇場やイベントですね。あとテレビの前説とかやってました」

 

――でも、漫才師はわりとすぐにやめられたんですよね。

 

「大学1年の冬にはやめてました。何が理由かというとよく、インタビューで、NHKの「バラエティー生活笑百科」という暮らしの中の法律相談番組で巨人師匠の付き人として同行して、法律に興味がわいたとか言ってるんですけど、それは嘘なんですね。本当は、高校卒業して、付き人になりだしたときに、すぐに吉本の大崎さん(現社長)のもとに連れていかれて、NGK(なんばグランド花月)の屋上でネタを披露したんです。ダウンタウンの全盛期でしたね」

 

――大崎社長は、もともとダウンタウンのマネージャーですよね。私ら世代の関西人は、ダウンタウンの「4時ですよーだ」を観て、そのままハマり続けている人間多いですよね。私もそうですし、今でもダウンタウンは特別な存在です。

 

「僕もダウンタウンは大好きです。それで、その当時、僕は調子に乗ってたんですよ、紳助さんに『ダウンタウン以来の衝撃や』とか褒められた。あとで思うと、どう考えてもそんなわけないんですけど。それで大崎さんの前でネタをやったら、15秒ぐらいで、『もうええわ、お前らおもんない』と言われたんです。けど、それが全然嫌な言い方じゃなくて、今、東京の若手でイベントやってるから、交通費出したるからそこ出たらええと言ってくれました。で、またおもしろいネタ出来たら見せにおいでとまで大崎さんは言ってくれたんですね。そのあと、吉本で会っても喋りかけてくれて、すごいありがたかったんですけど、そこから悩みだしました。ダウンタウンを育てた人におもしろいって思ってもらえるネタって何だろうといくら考えても、思いつかなかった」

 

――ダウンタウンは、頂点ですからね。

 

「最高峰ですよね、あれ以上のものはない。じゃあそう思ってる自分がお笑いの世界でやる意味はないんじゃないかと悩みはじめたんです。島田紳助さんにしても、そうです。傍で見てて、やはりすごい人なんです。当時、僕が18歳で紳助さんが38歳で、当たり前なんですけど、最初からすごい人を傍で見られる状況だったんです。全ての面で、絶対にかなわへん人たちを見てた。そういう最高峰のものが現在進行形で存在してる世界で、自分がやる意味はないやろと思ったんです。高校生で大御所から褒められて、自分らあと4年後には2、3千万円稼いでるぞと言われたら、高校生だったら、やっちゃいますよね。でもいざやりだしてから真剣に考えだすと、これは自分みたいな普通のあんちゃんがやったらあかん職業なんちゃうかなと思いました。最初から大御所たちを近くで見てて、なんていうか、あの人たちって、生まれながらの芸人さんなんですよ。芸人にならざるをえない人たちですよね」

 

――どう転んでも、その道に行ってた人たちですよね。紳助さんはああいう形で引退されましたけれど、その功績は素晴らしいし、天才やと私は思っています。確かに近年はトラブルも多かったし傲慢さも見えたけれども、今までどれだけ笑わされてきたことか。

 

「あの人たちは、職業選択の自由がある世の中で、職業を選択できない人たちなんです。カッコいい意味で、職業を選べない人たち。僕は、職業選択の自由がある凡人やなと思ったんです。職業を選択できる人間は、あの人たちのようには、なれない。そういう人間が人前でやるもんじゃないなと考えたんです。でもそれも今なら芸能界だって、いろんなポジションがあるってわかるんですけど、当時は高校球児がイチローの安打記録抜けへんから、王貞治の本塁打記録抜けへんからプロ野球入らへんという極端な発想しかできなかった」

 

――やめると決められた時、周りの方はどういう反応でした?

 

「巨人師匠は、すごい優しい言葉をかけてくれました。頑張れよって。最初こちらからお願いして弟子入りして、短い期間でやめるのにもかかわらず。紳助さんも、最初にとりあえず3年はやれと言ってくれてて、その3年を待たずに辞めてしまうけれども、せっかく知り合えたんだから、いつでも遊びに来いよと言ってくれました。でも、嫌味を言う人たちもいましたね。やめて何すんねんと聞かれて、司法試験受けるというと、お前みたいな甘く考えてるやつがなれるかボケって言われたり」

 

――司法試験を受けるのはその時にもう決意されてたんですか。

 

「やめる理由を正当化するために、司法試験を受けるって言い出したところがありました。積極的に法曹になりたいわけじゃなかった。ただ、大学受験の土俵に上がらなかったことの敗者復活戦という気持ちもありました」

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