女の庭
――男と寝ること、それ以上に楽しいことを私は知らない――
これは「女の庭」の主人公・絵奈子の台詞で、単行本の際に帯にも使われた言葉です。「女の庭」は、真夏の京都、8月16日の五山の送り火の日に、大学の恩師の葬儀の日に再会した場面から始まります。五山の送り火とは、京都市内の山々に火が灯される行事で、テレビ等でご覧になった方も多いのではないでしょうか。「送り火」のいわれは、お盆に帰ってきた先祖の霊を送る意味もあると言われています。
バツイチで「男と寝るのを我慢できない」絵奈子と、呉服屋の娘で専業主婦の夫しか男を知らない里香、元モデルで東京から出戻った愛美、夫とカフェを営む唯、エステを個人で営むセックス嫌いの翠が深見教授の葬儀で再会しますが、彼女たちの胸に蘇ったのは学生時代、ゼミの際に「間違って」流された教授と女性の淫らな映像です。あの女は誰なのか――その疑問が、再び彼女たちの胸にくすぶりはじめます。
女たちは、それぞれ性の秘密を抱えています。それと向き合うがゆえに葛藤し、悩み、他人から見たら非難され理解しがたい行動にも走ります。
けれど私は彼女たちの誰ひとり、特別な女だとは思っていません。誰だって、普段は何気なく日常をやり過ごしながら、性の秘密を抱いていたり、人に言えないことをやっていたりするではありませんか。
そうして彼女たちの様々な形の性の渇望は、寂しさとつながっています。
私は未だに、純粋な性欲というものが実はよくわかりません。セックスしたいとか、男が欲しいという欲望の裏には、寂しさが常に張り付いています。それはたとえば恋人がいるから満たされるものでもなく、愛という曖昧なものなど介在しないほうがいいときもあります。
そして年を取り身体が衰え死に近づいていく中で思うことは、セックスでしか救われないときがあるということです。愛されてもお金があっても仕事があっても紛らわすことができないどうしようもない孤独や不安が、人と肌を合わせることにより救われることがある。
セックス以上に確かなものはないと思うのです。身体をつなぐ行為である、セックスでしか。
セックスでしか救われないなんて、ひどく弱く愚かなことかもしれません。けれどそれの何が悪いのでしょうか。寂しいから、人を求めることを、人を好きになることは、悪いことなのでしょうか。
「女の庭」の登場する五人の女は、皆、愚かで弱いです。
でも、男だって女以上に愚かで弱い。
そんな男と女が肌を合わせ、生きて行こうとする姿を嗤う人たちを、私は憐れみます。
男と女が身体を重ねる以上に幸せなことはないと、私は思っているのですから。