官能という足枷
官能作家と冠がつけられてしまうことは仕方がないことなのだけれども、違和感がものすごくありますし、残念に思うことがあります。
団鬼六賞という賞をいただいてデビューして、その後も「官能作家」という肩書でインタビューを受けたり、主に性を扱う小説を書き続けているから仕方がないことではあるんですが。
もともと「小説家」になりたくて、いろんな賞に応募していましたが、官能小説というものは書いたことはなかったし、書けるとは思っていませんでした。
「団鬼六賞」に応募したのは、団鬼六という作家が好きだったからです。
そもそも、団鬼六先生を私は「官能」というカテゴリーに限定される人だとは思っていません。デビューは純文学であり、還暦過ぎてから優れた純文学、エンターティメント小説を書き続けてきた方だからです。
そして官能小説で思いがけず賞をいただいて作家になったあと、こんなに「官能」というカテゴリーに縛られるとは思いもよりませんでした。
小説家になり、「官能作家」と呼ばれるようになり、痛感したのは、私はいわゆる男性の自慰のために小説を書くのは向いていない、ということでした。
今、「官能作家」と呼ばれている方たちが書かれているものは、主にそういう性的興奮を喚起させるもの、つまりは勃起をいざなうものであると思います。それはファンタジーを描くことでもあります。女の本音や現実をあからさまに見せつけられてしまえば、男性は勃起しない、萎えてしまうのだから。
私はそのことに興味がありません。むしろ、萎えさせるほうに興味がある。
人が目を背けたくなるような、グロテスクなものを突き付けるほうが好き。
何が書きたいのかと問われる度に、答えに迷いました。
ただ、「団鬼六」という作家が好きなまま、とくに「官能」に思い入れにないままに、「官能作家」と呼ばれるようになって。
けれど、たぶん、編集さんたちにはそういうのはわかっているのだと思います。
だから、怪談とかホラーとか、官能ではない仕事もいただけるようになりました。
今、何が書きたいのか問われると、「地獄」と答えます。
私は地獄が書きたいのだということに、ある時、気づきました。
この世の地獄、いえ、この世が地獄です。
そして地獄にしか仏はいないのだと。
闇の中でしか光が描けないように、地獄の中でしか救いは描けない。
「官能作家」と呼ばれることの違和感は、もうひとつ。
私はセックスそのものにはほとんど興味はなく、行為がもたらす人と人との感情の変化、生み出されるものに興味があります。だからプレイのバリエーションとかテクニック的なものとかには全く関心がありません。もともと性的なことには保守的で、面識のない人から性的な冗談を言われるのは嫌悪感しかないし、性的なことに線引きができない人も苦手です。基本的に男性が好きではないのだと思います。
だから「女の官能作家」として求められることに応えることもできません。「エロい女」を演じることが、できません。
こういうことを書くと、不愉快に思う人たちがいることも知っています。
現時点で私を快く思っていない人たちがいることも。
決して「官能」というジャンルを貶めているわけではないのに。
ただ、私が、そこの住民ではないということだけで。
不愉快に思う人たちがいて、こちらの意図をくみ取ってもらえないという諦めがあるから今まではっきりと言わなかったけれども。
私は、「官能作家」では、ありません。
ただの「作家」ですし、そう呼ばれるようになりたい。
どうしても記事の見出しなどではセンセーショナルに注目されるために「官能作家」という冠がつけられてしまうけれど、そこでしか見られないのは私の力不足に他ならないのでしょう。
そうして「官能」という冠がつけられることにより、私の小説を敬遠する人も少なくない。
そのことが、たまにとても悲しいです。