京都新聞で連載はじまります
京都新聞にて、明日7月30日より月イチ最終木曜日掲載で「花房観音の女の情念京案内」というコラムの連載がはじまります。
第一回は与謝野晶子と鉄幹、山川登美子の三角関係をとりあげています。
コラムですが事件記事のようなつくりになってて面白い誌面になっています。
新聞なので過激なことは書けませんが、ギリギリのところを狙っていきます……エロス!
よろしくお願いします。
黄泉醜女
新刊「黄泉醜女 ヨモツシコメ」(扶桑社)は、首都圏婚活連続殺人事件の容疑者「さくら」をめぐる人々の物語です。
かなり改稿を繰り返しました。と、いうのは、現実が目まぐるしく変化して、それを追っていたからです。
当初は、「木戸アミ」というフリーライターが主人公でしたが、担当さんとの話し合いで、もうひとり主人公を作りました。
それが官能作家の「桜川詩子」です。
桜川詩子は容姿に強いコンプレックスを抱いていますし、実際に「官能作家」として表に出て、ずいぶんと中傷を受けました。美しくない女が性を描くことで、こんなにも憎まれ罵倒され侮蔑されるのだと思った詩子は、「官能作家」からの脱皮を試みています。
木戸アミは逆に、容姿を磨いて「美人」といわれていますが、フリーライターとしての将来に不安を抱いており、また何故か恋愛が上手くいきません。
この2人を結びつけたのが「春海さくら」という世間を騒がせた婚活連続殺人事件の容疑者でした。
どうしてあんな女が男たちに貢がれ、求められ、愛されたのか――。
2人は「さくら」を知る女たちに話を聞きに行きます。
そして取材を終えた後で、2人の身に起こった出来事とは……。
東京が舞台の女の欲望と劣等感と嫉妬の物語です。
東京に住んだことのない私から見た「東京に生きる」女たちの話でもあります。
「さくら」の故郷でもある北海道の道東の酪農の町にも、昨年のクリスマスイブに行きました。
ひたすら雪景色が広がる何もない土地で、私は自分の故郷を連想しました。
「さくら」という名前が、この物語のひとつのキーワードでもあります。
だってほら、あの人も、あの人も、「さくら」と自ら名乗ってるでしょ?
あの、死刑判決を受けた容疑者も……。
東京はずっと苦手な土地だったけど、この小説の取材で頻繁に滞在するようになって、考えが変わりました。
私と東京を近づけてくれた小説になりました。
(ちなみに次回作も、一部、東京が舞台です)
もともとこの話を書くきっかけは、私がfacebookに「さくら」と名乗る容疑者の獄中ブログのことを書いていたら、それを見た編集者(30代の女性)が、声をかけてくれたものです。尋常じゃないほどに、熱のこもった依頼でした。彼女も、「さくら」に憑りつかれていたひとりでした。
桜川詩子が私で、木戸アミが彼女なのか……それは読んでからの、お楽しみということで。
容姿について嫌な思いをしたことのない女性なんて、ほとんどいないと思います。
いるとすれば絶世の美女か、よっぽど鈍い人でしょう。
けれどどんな美女でもいつか容姿は衰え、「劣化」などと言われてしまいます。
どこにいても、どんな仕事をしても、いくつになっても容姿、つまり「他人の目」は、ついてきます。
容赦なく、男たちは自分を棚にあげて、女の容姿や年齢をあげつらい、それが悪いことだとは思っていません。
バスガイドという「女」の仕事をしてきたので、自分自身だけではなく、同僚や先輩や後輩が男たちに容姿についてひどいことを言われる様をたくさん見てきました。
けれど女だって、自分の容姿を磨き商品価値を上げ、利を得ているのですから、いちがいに「男が悪い」とも言えません。
私だとて、若くも美しくもないけれど、女であるからこそ得をしたことは、たくさんあります。
そもそも「バスガイド」なんて肩書きを公表していることが、女を利用してるようなものです。
「黄泉醜女」とは、日本神話に登場する女の鬼です。男神・イザナギは、妻のイザナミが亡くなったことを嘆き悲しみ、黄泉の国に会いに行きますが、「決して見るな」というイザナミのいいつけを破り、醜い妻の姿を見て驚いて逃げます。怒ったイザナミが、イザナギを追わせたのが黄泉醜女です。
この話は、本当に男って勝手だなー、自分が約束破っておいて逃げるなよと苛つきながらも、ここに描かれているイザナギとイザナミのエピソードこそが、個人ではなくて社会における男と女の関係そのものかなとも思います。
もしも、このときに、イザナギが「醜くても妻には変わりない」と、逃げずにいたら、どうなっていたのでしょうね?
もっとも日本神話には、この話に限らず、「この男、最低だな」としか思えないエピソードが多いのですが……。
私は昔から劣等感が強かったので、若い頃は女として見られないように振る舞っていました。化粧もせず、男物の服を着て、乱暴なものの言い方をして、男に関心を持たれないことで傷つく前に、「女」を捨てていました。そしてある時から、「女」を演じることをはじめました。演じていくうちに、私は誰よりも自分が「女」であることを自覚しました。決していい意味の「女」ではありません。けれど、そもそも「女」なんて、綺麗な存在ではないのですから。
多分、容姿のことからは一生逃れられないんだろうなと思いながらも、それを「無かったこと」「気にしてないふり」などせずとも、戦い方はあると思います。
女が、女のままで、生きる道は、あるはずです。