林芙美子の「晩菊」を読んだ。
棘、諦め、未練、怒り――若くない女の哀愁がひとつひとつの言葉に籠められていて、酔う。
哀しいけれど痛々しくはないから愛おしめる。
女のままで年を取ることは怖いけれど、幾つかの情深い恋の記憶があれば、楽しめるかもしれない。
私の次に出す本が、生々しいほどの「女」の話で、腐臭を発していて醜くて、書いててうんざりもしたし、きっと読んで目を背ける人もいるだろう。
けれど若くない女の欲望なんて、そもそも美しいものではない。哀しくて醜くて生臭い。
でも私にとっては、それがリアルな「女」なのだ。
昔は「いつまでも女でいたい」なんてたわけたことを考えたこともあるが、今は、早く「女」を終えてしまいたくてたまらない。
死ぬまで「女」であり続けるなんて、ゾっとする。
女の子宮は心臓で、それをつかって書いていると思うことがある。
少なくとも私の心臓は、子宮だ。
けれども、 今、婦人公論に工藤美代子さんが宇野千代の生涯を書かれているのを読んでも思うんだが、情深い恋愛を何度か重ねていれば、その記憶がいずれ柔らかな毛布となり老いた女をくるんでくれて、幸せなお婆ちゃんになれそだなんてことも考える。
「女」を漂わせる女性作家たちの晩年の小説を読むと、ひとりの男に惚れて心という井戸の奥底まで辿りついてしまった情深い恋愛の記憶がある女たちの生涯は、苦しみや悲しみや痛みは人より多いけれど、幸福だったと思うのだ。