2/15は大阪ドーン・センターに映画「立候補」の上映会に行ってきました。
開始30分前から結構な行列ができていました。
2011年の大阪府知事選を追って「泡沫候補」と呼ばれる人たちを中心に撮られたドキュメンタリー映画で先日、毎日映画コンクールのドキュメンタリー部門を受賞されたのもニュースになりました。
私がこの映画を観ようと思ったのは、お世話になってる角田龍平弁護士がtwitterで絶賛されていたのと、「監督失格」のプロデューサーでもある甘木さんに強くすすめられたからです。
私は今回が4回目の鑑賞でした。初回は京都の立誠小学校で普通にみて、2回目はそこでトークをさせてもらって、3回目は秋に同志社大学で上映したときか。
ちなみに角田弁護士は6回ご覧になってるそうです。
同じ映画を繰り返し見ると、その度に「発見」があります。
その時の自分の状況と、どういう感じにリンクするかも違う。
特にドキュメンタリー映画は登場人物たちが「実際にいる人」だから、生き物です。 今回はそれをつくづく感じました。 上映があったドーンセンターは、橋下さんがつぶそうとしていた施設で、映画に登場する府庁のすぐ傍。そして上映の最中、維新の会が質問中継などをしていた。
上映が終わり、ニュースを見ると、大阪市長選に関してのニュースで登場人物たちの名前が挙がっていた。 ちなみに角田龍平弁護士は、以前は橋下さんの事務所に所属されていました。
いつもなら映画を観終わり、映画館を出ると「現実」が待ち受けているのですが、この日は違いました。
映画が終わっても、映画が続いているのです。
いや、我々の現実そのものが映画なのだという感覚でした。
映画でも小説でも、たまに「現実」を牽引することがある。
自分も小説で、書いたことが実際になったり、なりそうだったりということが何度かあって、その度に、少し恐怖も感じる。
映画や小説って、本来は「創る」ものではなくて「生まれる」もので、だから「育つ」のだ。
親の知らぬ、親の思い通りにならぬまでに、育つ。
「BE-PAL」というアウトドア雑誌に、「監督失格」の平野勝之監督が「旅人失格」という連載をしていて、そこに描かれてるのは、自らの人生を映画にし続けてきた平野勝之の「監督失格」の続編である、ひとりの女性との恋愛で……。 ここにも終わらない映画がある。 平野さんの場合は、自分自身を切り刻んで作品にしているようなところもあるので、残酷だなと胸が痛むこともあるんだけど、それがもう「平野勝之」なんだから、しゃあない。
いろんな想いはあるけど、どれもこれも含めて、おもしろいですよ。 自分の意思を超えた、大きな流れに巻き込まれていくのも。
「創る」のではなくて「生まれる」ものだから、流れに身を任せたほうが、楽しいのに、決まってる。
あと、去年一年、私は鬼のように仕事をしていて、当たり前だが小説を朝から晩まで注文を受けて書きまくるという初めての経験をして、プレッシャーやら戸惑いやら自信の無さやら、あれやこれや嫌なこともあったし、ぐったりして寝込んだり、ひとりで泣いたりというのもしょっちゅうで、そのくせ報われていない、そもそも小説は売れない、私の小説なんて誰が読んでるんだよという虚しさにも何度も捕らわれていました。 人から見たら「仕事に恵まれていいね」という状況だからこそ、誰かに泣きつくこともできないし、そもそもわかってくれる人もいないのだから、ひとりで泣くしかない。 孤独でしょうがなかった。
小説を書くという選択そのものが、「負け戦」だという想いは拭えなくて、今でもそれはあるんだけど、だからこそこの映画が沁みた。 ひとりで戦うということが。 そうやって自分の状況と重ねて救われる人は多いんじゃないかな。
小説を書くということ自体が、自分の内面に深く潜ることだから、孤独な作業なのは間違いない。
それはわかっているのだけれども、去年の私はひたすら精神的にも現実の生活も引きこもっていたし、いろいろとまいってた時期があった。
なので今年の目標は「脱・引きこもり」(精神的にも)。 でも仕事量は減らさない。
今日の映画「立候補」の上映会の主催者の方もおっしゃってたけれど、大阪を舞台にした映画なのに、大阪での自主上映の機会が今までなかった、と。
3/15から大阪九条のシネ・ヌーヴォーで上映されるようなので、「大阪」で、「大阪」を知る者たちが、「大阪」を体感できる最高の機会だと思います。
最初に見たときに「大阪のダメなところがいっぱい詰まってる映画☆」と思いました。
とりあえず、角田弁護士と回数を競い合うか……。